新潟湊は信濃川河川口左岸に位置する湊であった。
新潟湊には全国各地の湊から船が訪れ、荷物の積み下ろしをしたり、商売をしたりした。
また越後・佐渡の沿岸地域や信濃川・阿賀野川の広大な流域からも船がやってきた。
新潟湊は遠隔地貿易と地域内流通をつなぐ拠点として繁栄した。
新潟湊は河口の湊で、強い季節風が吹き、浅瀬が入口をふさぎ、安全な湊とはいえなかった。
しかし、湊町新潟には米をはじめ多くの商品が集まっていた。
後背地の町や、村は新潟を通じて遠くから運ばれる品々を求めていた。
資金を融通できる大承認が軒を連ねていた。
新潟湊は、商売をする回船にとって魅力的な湊であった。
「新潟町絵図(堀と通で区画された新潟町)」文政6年(1823)/新潟市歴史博物館所蔵
新潟町は1655年に現在地に町を移してできた。
信濃川と並行して、店が並ぶ大川前通(上大川前通)・本町通・片原通(東堀通)・古町通・寺町通・(西堀通)があり、片原通と寺町通は道の中央に堀が通っていた。
通と直角に通りをつなぐ小路が作られ、小路には信濃川と寺町堀・片原堀うぃつなぐ5本の堀が通っていた。
18世紀半ば以降、町と信濃川の間には砂州が徐々に付くが、かつての川が堀のように残り、信濃川と町の堀をつないでいた。
安政6年「新潟湊之
真景」 (新潟県立図書館所蔵)
江戸時代には町や店ごとに売買できる商品や仕事が決まっているものがあった。
たとえば川を下ってくる材木は現在の上大川前通一~四番町、反物は本町通五~十番町の表店と言われた店、漆器は古町通七番町、魚問屋は本町十一番町西側以外では商売できなかった。
大工や指物師、風呂屋、髪結などは株を持つ限られた職人や店しか仕事ができなかった。
回米船や北前船は新潟町に富をもたらし、文化を育でた。
北前船は西国から古着や塩、蝋、紙、鉄などを、蝦夷地からは鮭や鰊などを運んで新潟町で売り、米や酒などを買って運んだ。
新潟町では年貢米や、商品を保管したり、運送したり、売買したりした。
職人たちは各地の原材料を加工して商品を製造した。
回船を迎えてこそ繁栄するという町のあり方は他の地域の人々を大切にもてなすための文化を生み出した。
新潟湊には様々な船が数多く出入りした。
新潟湊から越後各地の年貢米を大阪や江戸へ運んで運賃を得る船を「回米船」といい、主に瀬戸内の千石船が用いられた。
日本海沿岸北部の湊と西国を往来する回船を西国の人々は「北前船」と呼んでいた。「北前船」は北陸地方の船主が経営したものが多く、港で商品を買い、別の湊へ運んで売ってもうけていた。
また、越後・佐渡の湊との間を往来する「地回り船」「小回り船」や内陸の河川を上下する「ひらた」「長船」などの川船も出入りしていた。
江戸時代、越後・佐渡以外に籍のある、大きな回船は、決まった大問屋という回船問屋の世話になった。
大問屋は上大川前通や本町通にあり、軒数は48軒に限られていた。
「地回り船」「小回り船」といった近くの小さな回船は、小問屋という回船問屋の世話になった。
回船問屋は回船の船頭を泊め、資金を融通し、卸問屋との仲立ちをして、船頭の商売を助け、手数料や保険料などを得ていた。
明治以降、回船問屋の特権や制限はなくなり、多くの商店が回船問屋を名乗り、入港する船の荷を扱った。
本町市場には、上の市場(本町5、6番町)、と下の市場(本町11、12番町)とがあり、江戸時代から市場が開かれていた。下本町市場は、今もなお露店が開かれ形は違えど昔ながらの文化が受け継がれている。
前の記述にも記載したが、江戸時代には本町通十一番町の西側は、助買町とか肴町と呼ばれた。魚屋のことを助買といい、魚の卸売りができるのはこの町だけであったこともあり、現在も魚屋が多く、創業が江戸時代の店舗が今もなお営業している。
江戸時代では「大川前通」と言われていた。通の前には信濃川が流れていたことでこのように名付けられた。その後、信濃川の土砂堆積があり、通の前には川がなくなったが地名だけはその時の名残がある。
江戸時代には目の前が信濃川であることから、廻船問屋や海鮮業が盛んであった。
そして当時財を成した廻船問屋「小澤家」、北洋漁業家「片桐家」の豪邸や町屋が今もなお存在しており、歴史を感じさせる通となっている。
明治6年(1873年) 長音寺に 私学須崎校としてこの地に開学しました。明治27年(1894年)湊尋常小学校が出来ます。
子供が増え、校舎が狭くなった事で、大正元年(1912年)になると、現在校舎の建つ場所へと移ってしまいます。
空き地になってしまった場所に、昭和5年(1930年)曙公園が完成しました。
当時より土俵があり、現在でも土俵のある公園は珍しい。